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村の歴史

西原村の歴史

 村にはいつの頃から人が住んだのか明らかではないが、1万年前であるだろう。(村の出土品による)

 縄文時代の石器が出土しており、弥生時代の青銅器、鉄器も出土している。農耕文化が進むにつれて、狩猟、山の生活から次第に平地に移住したと思われて、村では特に見るべきものは出土していない。

 大化の改新(西暦645)大和朝廷は、全国に国と郡を置くが、山西地区は阿蘇郡となり、河原地区は益城郡となる。

 平安期(西暦794)に入ると、阿蘇氏の勢力は県下に広がり、鳥子神社を始め村内の各社に阿蘇の神が祭られる。

 天正3年(西暦1575)島津氏が肥後に侵入したとき、鳥子城、門出城が落ちている。

 細川氏が肥後の藩主となると、寛永10年(西暦1633)手永(てなが)の制度を設けた。その役所を会所と呼んだが、布田地区の上に史跡が今も残っている。

 布田手永には南郷谷の西半分と、山西区が入り、河原区は沼山津手永に入る。手永には惣庄屋があり、庄屋、頭百姓などと農民の自治組織をしき、新所地区のような軍事を含んだ足軽鉄砲隊の村もあった。

 幕末期(西暦1853)頃が産業・治水・土木等村として一番活動があった。宮山・下小森・布田に堤が出来、河原には新井手・嘉永井手が完成するなど、開墾・開田産業の発達に大きな力となったが、矢野甚兵衛による大切畑の堤の完成は、小森・鳥子方面の水田100ヘクタールに及び広大な恩恵を与えた。各地区の観音像・薬師堂・地蔵尊・猿田彦大神等の建立がこの時代になされた。

 明治4年には熊本県が置かれ、12年には郡町村制がしかれた。明治5年に学制がしかれ、7年には鳥子小学校が創立され、河原では田中の庄屋跡に創立されている。

 昭和35年に、山西村と河原村が合併して、西原村が誕生した。

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